和歌山市のゲンキな情報をお伝えします!
「ゲンキ 和歌山市」は和歌山市のイベントや旬な話題・情報、
そして和歌山市をゲンキにするために頑張っている市民の方々にスポットをあて、
月曜日から金曜日の朝、お伝えします。
2024年9月26日
☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆
今回も昨日に引き続き、「和歌山リハビリテーション専門職大学」について、巽 絵理先生さんと、2回生の森脇 悠翔さんにお話を伺います。
Q:森脇さんは、理学療法士を目指して学ばれているという事ですが、目指したきっかけはなんだったのでしょうか?
祖父が病を患った時に初めは免疫力が低く手術ができないと言われていたのですが、リハビリに取り組む事で免疫力が上がり、手術が受けることができ無事に退院することができました。
患者さんを支えられるリハビリの凄さを知って、この職業を目指したいと思いました。
Q:色々な大学があったかと思いますが、その中で、この大学を選ばれた理由はなんでしょうか?
オープンキャンパスに参加した際に先生と生徒の距離がすごく近く、相談しやすいなと思ったのでこの大学を選びました。
Q:オープンキャンパスには何回くらい通われたんですか?
大体6回以上です。
Q:それは何ででしょうか?
オープンキャンパスでの体験講義が毎回違う内容ですごく新しい発見ができて楽しく受けれたので、ずっと参加することにしました。
Q:どんどんこの思いが大きくなっていった、ということなんでしょうね。で、この思いを膨らませて入学してみていかがですか?
実際に入学してみて専門的な知識を学ぶだけでなく、実技の講義が多く、より経験や技術を身につけることができています。
Q:実習が多いということは現場に何回もいくことによって自信にも繋がってきませんか?
即戦力として働けるように、経験や自信を身につけていくことができています。
Q:先生、こういう学生の声を聞いていかがですか?
がんばって教育していかなければいけないなと思います。
Q:特徴もたくさんあるかと思うのですが先生から見て、この学校の特徴、これだ!というものはなんでしょうか?
理学療法、作業療法を養成する過程の臨床実習が多いというのはどこの学校も同じなのですが、本学に於いては専門職大学というところですので臨床実習の時間数以外の普通の授業の中でも実践実技の時間を多く設けております。特に地域の方に協力していただいて、地域での実践の場というのを多く実施しておりますので、そこが大きな特徴かな、と思います。
Q:まだまだお話を伺いたいのですが、最後に、市民の皆さんに向けて、メッセージをお願いします。
今年度の入試がこの9月から始まっております。
高校3年生はもちろん、社会人の学び直しの方も募集しておりますのでご興味のある方は是非、お問合せください。
また、認知症予防プログラムを10回シリーズで実施しております。11月ごろから第二期の募集を開始しますので是非お問い合わせていただければ幸いです。
電話番号は、073-435-4888です。よろしくお願いいたします。
Q:森脇さんはいかがですか?
患者や利用者さんだけでなく地域の方々をサポートできる理学療法士、作業療法士を目指して一緒に学んでいきましょう!
2024年9月25日
☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆
今回は、和歌山市がまちなかに大学を誘致し、令和3年に開校した「和歌山リハビリテーション専門職大学」について、巽 絵理先生さんと、学生の森脇 悠翔さんにお話を伺います。よろしくお願いします。
Q:この大学ではどのようなことが学べるのでしょうか?
リハビリテーションの専門職である、理学療法士、作業療法士を目指すための勉強ができます。
Q:キャンパスはどちらにありますか?
和歌山市湊本町3丁目1番地で、旧市民図書館の跡地にあります。
南海和歌山市駅から徒歩ですぐの近いところですよね。
Q:この大学はどういった経緯で市民図書館をリノベーションして開校することになったのですか?
元々は和歌山国際厚生学院というところで15年間ほど理学療法士を養成しておりました。そこが大学化するということで、若年者層の市外流出の抑制や街中の賑わいの創出をするために、まちなか大学誘致がなされ、専門性の高い大学を作り、学生が本市で学び、就職をするという「地学 知就」の実現のためにできました。
Q:先生はどんな研究や勉強をされているのですか?
私は、健康科学部リハビリテーション学科の「作業療法学専攻」に所属しており、作業療法士です。
専門領域は、精神障害や就労支援です。メンタルヘルスに問題を抱える対象者に「リハビリテーション」を行ったり、障害を持ちながらも働きたいと思っていらっしゃる対象者の支援を行ったりしています。
Q:森脇さんは今、2回生ということですが、どんな勉強されてますか?
私は健康科学部リハビリテーション学科「理学療法学専攻」に所属しています。勉強している内容は理学療法学の専門的な知識と技術を学んでいます。
Q:作業療法士と理学療法士の勉強ができるとのことですが、この違いや職業を具体的におしえていただけますか?
作業療法士:
「その人らしい生活」の実現をサポートする仕事です。食事、着替え、入浴などの日常生活動作や、仕事、学習、趣味などの社会参加に必要な能力の向上を目指しています。対象は身体障害だけではなく精神や発達障害を持つ人、または障害の発生が予測される人が対象となります。
理学療法士:
基本的な身体機能の回復・維持をサポートし、歩く、立つ、座るなどの基本動作能力の向上を目指しています。対象者は主に身体障害となっております。
共通点として、どちらも、対象者が可能な限りその人らしい生活を送れるように支援することを目的としており、就職先としては病院、クリニック、介護施設、訪問リハビリテーションなど、様々な場所で活躍しています。
人に対して人が必要という、一番人に触れる職業になりますね。
ありがとうございました。また、明日も引き続き、お伺いします。
2024年9月12日
☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆
昨日に引き続き、紀三井寺について、紀三井寺住職の前田泰道さんにお話を伺います。
Q 見どころはどんなところになりますか?
まずは桜の寺ですから、花見で春先には来られる方が多いです。そして、境内から見る景色が絶景の宝庫和歌の浦という、日本遺産、和歌の浦の景色を見ることができます。寺の境内から直接景観があるのは珍しいと言われる方が多いです。
それから色々な建物や仏像や文化財をお預かりしているという意味でも見どころはわりあいあると思っています。
Q なかには国や県の重要文化財に指定されているものもいくつもありますね。
いちばん下の楼門という門と鐘撞堂(鐘楼)と多宝塔という二重の塔の3つが国の指定文化財ですし、仏像では本尊の十一面観世音さまや千手観世音さま、あるいは梵天、帝釈天、あるいはもう一体の十一面観世音さまといったところが重要な文化財となっています。
全て収蔵庫に収められているのですが、秘仏でない三体は常時大体公開しています。いつ来られても三体は10時半〜午後3時ごろまでに来られると拝観していただくことができます。
Q 今回10月19日(土)に夜間拝観を実施するとのことですが、夜間拝観は行われたことがありますか?
めったにないと思います。おそらく初めてではないかと思います。お坊さんは朝が早いものですから、夜は早く寝てしまうのですが、この日だけはちゃんとしっかり目を開けてお迎えをします。
先ほどお伝えしました大光明殿(収蔵庫)の重要文化財なども通常の昼間ご覧になるのとは違い、夜の拝観というのは別な味わいがあるのではないかと思いますので、一度またお運びいただければと思います。
Q 夜間拝観用にライトアップもされるのでしょうか?
ライトアップはさせていただきます。千日詣やお正月のようなライトアップになるかと思います。
この夜間拝観をご希望の場合は
9月23日(月)までに往復ハガキで和歌山市文化振興課あてにお申し込みをお願いします。
料金は1500円を当日お支払いいただくことになります。
定員は50人となっており、応募多数の場合は抽選になります。
詳しくは和歌山市文化振興課073-435-1194までお問い合わせください。
Q 最後に市民のみなさんにメッセージをお願いします。
2020年が紀三井寺開創1250年の節目でした。その年に色々と記念事業をしまして境内が随分変わっておりますので、みなさん一度来ていただければと思います。
バリアフリーをテーマにケーブルカーをつけたりしたので車椅子の方でも本堂まで来れます。
また、景観のバリアフリーとして、景色をじゃましていた木を伐採しまして景観がきれいに見れるようになっております。
バリアフリーをテーマとしてこれからもやっていきたいと思っております。私もバリアフリー和尚と呼ばれるようになりたいと思ってますので、みなさん、どうかこの紀三井寺に足を運んでいただければと思います。
*ケーブルカーから遊歩道を通ってエレベーターに乗ると本堂の横まで行くことができます。車椅子の方もベビーカーの方もどんな方も安心。
紀三井寺HPはコチラ
2024年9月11日
☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆
今回は、和歌山市民にも親しまれ、和歌山市観光でも有名なスポット、紀三井寺について、紀三井寺住職の前田泰道さんにお話を伺います。
Q 紀三井寺は和歌山市のシンボルのお寺といってもいいくらい歴史がありますが、いつからあるお寺ですか?
西暦でいうと770年。今から1254年前になります。唐の国(今の中国)からはるばる海を渡ってこられた為光上人というお坊様によって開かれたお寺です。
Q 紀三井寺という名前もそのころからなのでしょうか?
そうなのですが、ここは正式には「金剛宝寺護国院(こんごうほうじごこくいん)」という正式名称があります。ご存知の方は少なくて、みなさん「紀三井寺」とおっしゃっていただくのですが、紀州にある、三つの井戸のお寺という意味です。
山の中に3箇所井戸がありまして、それぞれ名前がついていて、清浄水(しょうじょうすい)、楊柳水(ようりゅうすい)、吉祥水(きっしょうすい)。これが自然の霊水を湧かしている珍しい湧水のあるお寺という意味で「三井寺」と呼ばれていました。
大津にも「三井寺」がありまして、ここのお坊さんが西国巡礼を最初に始めたと言われていまして、このお坊さんがこの辺りに来た時に、うちにも三井寺がある、ここにも三井寺がある。それなら紀州の三井寺ということでちょっと区別してほしい、ということで「紀」がつきまして「紀三井寺」になったと言われています。
Q その井戸は今でも見ることができますか?
今もコンコンと水を湧かしておりまして、きれいに整備されて湧かしております。
一応自然の水なので保健所からは煮沸するようにといわれているのですが、それぞれに霊言がこもった水であることを偲びながら汲んでいただけたらと思います。
Q 紀三井寺といえば長い石段。これは何段あるのですか、また、すべてに意味がありますよね。
231段ありまして、別名「結縁厄除けの坂」と言われています。
厄年がありますよね、男性でいうと42歳が悪い歳。女性は33歳、還暦の61歳も悪いという、全て数え歳ですが。。ちょうどその段数に踊り場から踊り場までがなっているのです。それで厄除けの坂といわれていてそこを踏み越えることによって厄除けになるという意味です。
もう一つは結縁坂(けちえんざか)という意味は、紀国屋文左衛門(江戸に上り大金持ちになった方)がまだ若い、貧乏な若者だった時に自分の足の不自由なお母さんを背負って紀三井寺に来た時に、ぞうりの鼻緒が切れてしまい、それを付け替えてくれたのがこの対岸にある玉津島神社の宮司の娘さんでおかよさんという方。恋が芽生え、それだけでなく宮司の出資金によって、みかんが少なくて困っていた江戸に紀州のみかんを運んで、大きな火事で木材がいるという時には木材を運んで、大儲けをして紀国屋という大きな信頼をうちたてた。ということから「結縁」と「出世」、「開運」の基になった坂「結縁坂」と申します。
明日も引き続きよろしくお願いいたします。
2024年9月5日
☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆
今回は「和歌山城の知っているようで知らない歴史」について和歌山城整備企画課 伊津見孝明さんにお話を伺います。
前回は、紀州徳川家初代の徳川頼宣と和歌山城を増改築した話を中心にお送りしました。今回は和歌山城のシンボル的存在である天守と紀州徳川家とのかかわりについてお送りします。
Q 和歌山城の天守は、浅野家の時代に建てられたという事は以前の放送でも出ていましたが、天守をめぐる紀州徳川家の藩主達のエピソードは何かありますか?
特に初代徳川頼宣、5代吉宗、10代治宝の3人の藩主は、天守と深くかかわっていますね。
Q ではまず初代の頼宣から。
頼宣が和歌山城に入った当時の天守の外観は真っ黒。でも、同じ徳川一門の城郭、江戸城や名古屋城、二条城の天守の外観は漆喰塗りの真っ白でしたから、やはり和歌山城も同じように天守の外観を真っ白にしたがっていたと云われています。
でも、天守の建て替えは幕府の規制もあってなかなかできない。
Q いくら御三家といえども勝手に天守に手をつけられなかったんですね。
明暦元年(1655)に和歌山城下の大半が焼失する火災があったのですが、その時天守は奇跡的に焼失を免れました。当時頼宣は江戸にいたのですが、火災の報告を聞いた際に天守が無事と聞いた時に残念がったと云われています。焼失すれば多少再建しやすくなりますからね。
Q 頼宣としては天守は焼けてほしかったと。それぞれの思いの違いが面白いですね。次の吉宗と
天守を巡るエピソードはどうでしょう。
吉宗の時も天守の建て替えを計画していました。ただ、財政難もあって話はなかなか先に進まず、ようやく天守台石垣の築き直しの検討に入りまが、その矢先に吉宗が江戸幕府8代将軍として江戸に行ってしまったので天守建て替えの話は立ち消えになってしまいました。
Q そのまま吉宗が紀州藩主でい続けたらもしかしたら天守の建て替えが実現したかもしれないですね。
最終的に天守の外観については、10代治宝の時代、寛政10年(1798年)に外観が白漆喰に変更になりました。頼宣の頃から約100年以上経って天守の外観が黒から白へと衣替えしたわけです。
Q 紀州徳川家の100年思い続けた執念が実った瞬間ですね。
ここで話が終わればいいのですが、この48年後に今度は落雷が原因で天守が焼失してしまいます。紀州藩は幕府から直ちに許可をもらって天守再建に着手しますが、この時、陣頭指揮を執ったのが当時隠居していた76歳の治宝でした。まさに老体にムチを打って臨んだわけです。
Q 天守の外観を黒から白に変えた治宝からすれば絶対に再建させる、という強い意志があったのでしょうね。
そうだと思います。この2代目天守は嘉永3年(1850)に無事に完成し、昭和20年(1945)の空襲で焼失するまで存在していました。
史跡 和歌山城のホームページはコチラ
「知ってそうで知らない和歌山城の歴史」過去放送分はコチラ🔽
1. 7月30日放送「豊臣・桑山時代」
2. 7月31日放送「浅野期」
3. 9月4日放送「紀州徳川家」
2024年9月4日
☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆
今回は「和歌山城の知っているようで知らない歴史」について和歌山城整備企画課 伊津見孝明さんにお話を伺います。
前回までのお話は・・・
豊臣秀長が和歌山城を築城し、家臣の桑山重晴が和歌山城の城代を務めた後、豊臣家と非常に近い存在だった浅野幸長が和歌山城主になり、その時に和歌山城は大規模な増改築が行われる。というお話でした。
Q その後の歴史、気になります。教えてください。
浅野家の次に入ってくるのが徳川御三家のひとつ、紀州徳川家でありまして、初代が徳川家康の10番目の息子である徳川頼宣になります。
この頼宣は家康に非常にかわいがられてまして、子供の時はすでに茨城県の水戸藩主や静岡県の駿府藩主などを経験して1619年から紀州藩55万5千石を与えられて紀州藩主になりました。
Q 頼宣の時の和歌山城の様子はどんな感じだったのでしょうか?
二の丸の西側と、砂の丸と南の丸が増築されて、ようやく今の和歌山城の姿が完成しました。
Q 砂の丸は今はグラウンドや護国神社の敷地になっています。南の丸は今は動物園になっていますが、江戸時代はどのように使われていたのでしょうか?
これについてはあまり記録がないのでよくわかっていませんが、絵図を見ると、基本的には蔵が複数存在し、広大な空き地になっていたようです。
Q 砂の丸はあのNHKのブラタモリでもとりあげられていましたね。
元々、砂の丸があった辺りは、南から伸びている吹上砂丘の一部でしたので、それの影響で「砂の丸」と名付けられたと言われています。タモリさんも地形が好きな方なので結構この話には興味を示しておりました。
全国のお城でもこの名前が付いた郭(スペース)が存在するお城は和歌山城だけになります。
Q この辺りが砂丘だったというところに驚きを隠せないのですが、この辺りも詳しく教えてください。
当時はお城の南側から吹上砂丘という虎伏山にぶつかって北西側に続いていたのですが、この吹上砂丘の上に砂の丸がつながっていまして、それで砂の丸という名前がつけられたと言われています。
Q 続いては南の方に行きます。和歌山城の南に三年坂通りがありますが、それも頼宣の時にできたのでしょうか?
もともと砂の丸と吹上砂丘はつながっていたのですが、頼宣の時に南から砂丘を通じて敵が攻めてきたケースを想定して、防ぐために今の三年坂のところを切り通りにして、巨大な空堀のような形にして、結果、三年坂が誕生したという流れになります。
史跡和歌山城のホームページはコチラ
明日も引き続きお話を伺います。
「知ってそうで知らない和歌山城の歴史」過去放送分はコチラ
1. 7月30日放送「豊臣・桑山時代」
2. 7月31日放送「浅野期」
2024年8月29日
☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆
今回も昨日に引き続き、和歌山市がまちなかに大学を誘致し、平成30年に開校した「東京医療保健大学 和歌山看護学部」について、准教授の吉村公一先生と3回生の柑本奈保さんにお話を伺います。
Q 柑本さん、キャンパスライフはどのように過ごされているのかお聞きしたいのですが、勉強以外に取り組まれていることはあれば教えてください。
ダンス部に所属していて学園祭や地域のイベント、他大学のイベントで披露させていただきました。ダンスを覚えるのは苦手で時間もかかりますが、友達と協力して、本番に向けて作品を作り上げていくのはとても楽しいです。
また、看護学生交流会運営委員会という委員会にも所属しました。和歌山県下の看護学生が交流する機会を持つために年に1回「看護学生フォーラム」を開催するにあたり、各校と協力して運営を行います。この活動を通して意見をまとめる力を身につけられましたし、人前で話すことに対するハードルが低くなったなと感じています。
Q この学校に入って良かったことはありますか?
県下唯一養護教諭第一種の免許が取れることがやっぱり魅力的だと思います。
また、3年生からは日赤キャンパスに通っているので医療現場の雰囲気を間近に感じ、身が引き締まる思いで毎日講義を受けることができています。
Q 吉村先生は大学の教育やカリキュラムについて、特色や力をいれていることはありますか?
和歌山看護学部特有のカリキュラムとして和歌山県を理解するために和歌山学という科目があります。看護職となるための知識や技術を習得することはもちろん、人として成長できるよう教養科目も充実しています。
Q 先生と生徒との交流の機会は多いですか?
交流は多いと思います。話しやすい雰囲気を持った個性豊かな先生が多いので授業時間に限らず気楽に交流することができます。
領域実習が始まるとより密接に関わる機会も増えると思うので、実習に対して不安はありますが、心強さもあります。
Q 最後に市民の皆さんに向けて、メッセージをお願いします。
11月に「医大祭」があります。医大祭では楽しいイベントをたくさん企画していますので、みなさん是非お越しください。楽しい時間を一緒に過ごせたらと思います。
高校生の方には9月の「1日体験入学」に参加していただき10月からの入試に向けて頑張ってください。
是非、4月からみなさんと一緒に勉強できることを楽しみしています。
入試の詳細は本学のホームページをご覧ください。
和歌山看護学部は交通の便が良く、周囲には探せば意外とすてきなお店がたくさんあって、アルバイト先を探すことや、友達と息抜きをすることができる恵まれた環境にあるので、勉強だけでなく充実した大学生活を送ることができます。
11月2日、3日にある「医大祭」はダンス部や軽音学部の発表やキッチンカーの出店、小さい子が楽しめる宝探しなどもあるので、看護師になりたい方や養護教諭に興味のある方は特に実際に東京医療保険大学の雰囲気を感じてもらえたらな、と思います。
X : ■THCU和歌山:@THCU_Wakayama
Instagram: ■THCU和歌山:thcu_wakayama
Facebook: ■和歌山看護学部:THCU.Wakayama
2024年8月28日
☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆
今回は、和歌山市がまちなかに大学を誘致し、平成30年に開校した「東京医療保健大学 和歌山看護学部」について、准教授の吉村公一先生と学生の柑本奈保さんにお話を伺います。
Q 東京医療保健大学 和歌山看護学部は、平成30年4月に開校したとのことですが、キャンパスはどちらにありますか?
キャンパスは和歌山市内に雄湊キャンパスと日赤和歌山医療センターキャンパスと2つあります。
雄湊キャンパスは1、2年生が、日赤キャンパスは3、4年生と大学院生が使用するキャンパスとなっています。
Q 東京医療保健大学という名前のとおり、もともとは東京にあった大学が、和歌山市にも学部を開講したということなのでしょうか?
東京医療保健大学は東京に医療保健学部、東が丘看護学部、立川看護学部があり、2018年に千葉看護学部と和歌山看護学部が誕生しました。
和歌山看護学部は和歌山県和歌山市日本赤十字社和歌山医療センターと東京医療保健大学の両者の連携により誕生しました。
そして、今は和歌山看護学研究科大学院もあり学部生と大学院生が日々がんばっています。
Q 和歌山看護学部では、どのようなことを学ぶことができますか?
看護師を養成する大学ですが、保健師や養護教諭になるためのカリキュラムが組まれています。
和歌山看護学部を卒業後、和歌山助産学専攻科に進学することもできます。看護師や保健師、助産師そして学校の保健室の先生として活躍している卒業生がたくさんいます。
Q 先生はどの学部に所属されていて、どんな研究や勉強をされていますか?
看護学部に所属しておりまして、心の看護を学ぶ精神看護学領域の教員として学生さん達と一緒に勉強しています。研究は精神障害者の方がその人らしく地域生活できるための支援について取り組んでいます。
Q 学生の柑本さんは何年生ですか?
私は3年生です。
Q こちらでどんな勉強をされていますか?
看護師になるための勉強と養護教諭一種の免許を取るために日々勉強しています。今は9月からの病院実習に向けて対象の方を多方面から捉えるための思考やプロセスを学んでいます。それをもとに必要な看護を導いて実際にケアを提供する計画の立て方についても学んでいます。
1年生、2年生で学んできたことを統合させながら、今はより専門的な学びをしているな、と感じています。
Q 柑本さんは元々和歌山の方ですか?
和歌山出身です。
Q 看護師になりたいな、と思ったのはいつでしたか?
高校2年生の頃に救急車に乗ることがあって、その時に出会った看護師さんが優しくて、かっこよくて素敵だな、と思ったので興味を持ちました。
Q こうやって看護学部が和歌山に増えて、選択肢が増えてうれしかったですか?
はい、嬉しかったです。
明日も引き続きお話伺っていきます。
2024年8月22日
☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆
今日も昨日に引き続き、和歌の浦を代表する名所である玉津島神社について権禰宜の遠北(あちきた)喜美代さんにお話しをお伺いします。
Q 玉津島神社に足を踏み入れて、パッと見てビックリしたというか、目を惹かれたのが「ウサギ」。「ウサギ」との関わりをおしえてください。
「ウサギ」は玉津島神社の御祭神のうちの2番目に祀られた神功皇后様と関係しています。
神功皇后様は大変武勇に優れた方で船で出兵されるのですが、稚日女様にお参りされていきますと、必ず戦に勝利を収め、行き来の航海の安全ということで崇拝されておりました。その亡くなられた後、この玉津島神社に合祀されまして、合祀された日が卯の年、卯の月ということで「ウサギ」は神功皇后の所以でございます。
Q こうやって玉津島神社にウサギを置き出したのはその頃からですか?
お守りやおみくじは置いていたのですが、最近卯年がありまして、その時にみなさまに知っていただこう、ということで拝殿の両脇に張り子のウサギを置きました。皆さん興味を持っていただけまして、今は卯年ではないのですが、「どうしてウサギですか?」と聞いていただいて、ウサギと神社の関係を皆様にお伝えできる良いチャンスをいただいております。
Q 他にも見所あるかと思うのですが・・
まずは和歌に関連するのですが、中央の鳥居を入っていただくと両脇に赤い塀があります。これは小野小町袖掛の塀というのですが、小野小町も和歌の達人でいらっしゃって衣通姫(そとおりひめ)様を慕いお参りされて、その袖にかけて和歌を詠まれたという謂れがございます。
奥へ入ってきていただけますと「根上り松」という大きな曲がった松があります。昔、玉津島神社に社殿も何もなかった時代に和歌信仰がありまして、その根上り松に和歌を上達させるために都からお参りされた歴史があります。その松は今はないのですが、その由来で根上り松は置いてございます。
後は正面に拝殿がございますが、その中には三十六歌仙がありますので、またおっしゃっていただけましたらご案内させていただきます。
万葉のお花もたくさん植えていまして、季節ごとで咲いてる花は違いますが、これもお楽しみいただけたら嬉しく思います。
Q 風鈴もたくさんありますね。
一昨年からずっと始めているのですが、お参り来ていただいた方にお願い事を書いていただいてかけていただいております。
Q この風鈴はいつまで飾られていますか?
8月31日まで飾っておりますので、是非みなさんお越しいただきまして、風鈴にかけてください。
Q では、最後にラジオをお聞きの皆さんに一言メッセージをお願いします。
玉津島神社はお花もたくさんあって、優しい神社でございますので、是非足をお運びいただいて、気持ちを安らかに、和んでいただけたらと思います。
2024年8月21日
☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆
今回は、玉津島神社について権禰宜の遠北(あちきた)喜美代さんにお話しをお伺いします。
Q 玉津島神社は和歌山を代表する観光地や御祈祷などで馴染みがある神社です。いつごろ、どんなことがきっかけで誕生した神社なんでしょうか?
玉津島信仰の創立は極めて古く、上古という「上つ世」といわれております、祀られている一番古い神様が稚日女尊(わかひるめのみこと)様で天照大神様の妹神とされております。
Q 誕生してここに来るまでも色々な方が訪れられてますよね。
この辺は景色が綺麗であるということから和歌に詠まれた土地柄でございまして、和歌上達のために、まず平安時代には藤原定家一門、天皇貴族、文人墨客。
中世においても有名な僧侶や武家の方。
江戸時代になりましたら、徳川頼宣公のお殿様や、(豊臣)秀吉ももちろん来られてます。
近代になりますと、小説家の方とかがたくさん来社しております。
Q やはりそれは玉津島神社のある所の景色が大きいのでしょうか。
和歌に詠まれるということで、玉津島神社には三柱の女神様がお祀りされてまして、まず稚日女尊(わかひるめのみこと)様、応神天皇様、そして最後に衣通姫尊(そとおりひめのみこと)様。この方がとても和歌が上手で、この方が祀られたことによって和歌の聖地となりまして、歌人の方々はこぞって和歌上達のために玉津島詣をなされてきました。
Q こちらの景色、本当に風情がありますよね。
昔から干潟が特色でございまして、昔はこのように整備されていなく、満潮になりますと玉津島神社周辺はずっと潮がさしてきまして、干潮になりますと干潟が現れて、という景色でございます。
この辺には玉津島六山といいまして小さな小山が六っつありまして、潮が差してきますと海中に山の頭が玉のように浮かんでいることから(玉は神様という意味があるそうで)、神様がいらっしゃる土地として、この辺崇められてきたその景色がとても綺麗だ、ということで和歌に詠まれてきました。
Q その景色は今でも見ることができるのですか?
今は開発がありまして、潮がここまで満ちてくることはありませんし、見えることはないです。
ただ、聖武天皇が1300年前に行幸で玉津島行幸された時に、玉津島神社の背後にある奠供山(御供物という意味の名前)に終日、山の上から海の満ち引きの景色を見られて、その景色と今は少し違うのですが、自然は残っておりますので十分楽しんでいただけます。
明日も引き続きお話を伺います。