9/5放送 和歌山城の歴史「天守と紀州徳川家のかかわり」

2024年9月5日

☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆

今回は「和歌山城の知っているようで知らない歴史」について和歌山城整備企画課 伊津見孝明さんにお話を伺います。

前回は、紀州徳川家初代の徳川頼宣と和歌山城を増改築した話を中心にお送りしました。今回は和歌山城のシンボル的存在である天守と紀州徳川家とのかかわりについてお送りします。


Q 和歌山城の天守は、浅野家の時代に建てられたという事は以前の放送でも出ていましたが、天守をめぐる紀州徳川家の藩主達のエピソードは何かありますか?
特に初代徳川頼宣、5代吉宗、10代治宝の3人の藩主は、天守と深くかかわっていますね。

Q ではまず初代の頼宣から。
頼宣が和歌山城に入った当時の天守の外観は真っ黒。でも、同じ徳川一門の城郭、江戸城や名古屋城、二条城の天守の外観は漆喰塗りの真っ白でしたから、やはり和歌山城も同じように天守の外観を真っ白にしたがっていたと云われています。
でも、天守の建て替えは幕府の規制もあってなかなかできない。

Q いくら御三家といえども勝手に天守に手をつけられなかったんですね。
明暦元年(1655)に和歌山城下の大半が焼失する火災があったのですが、その時天守は奇跡的に焼失を免れました。当時頼宣は江戸にいたのですが、火災の報告を聞いた際に天守が無事と聞いた時に残念がったと云われています。焼失すれば多少再建しやすくなりますからね。

Q 頼宣としては天守は焼けてほしかったと。それぞれの思いの違いが面白いですね。次の吉宗と
天守を巡るエピソードはどうでしょう。

吉宗の時も天守の建て替えを計画していました。ただ、財政難もあって話はなかなか先に進まず、ようやく天守台石垣の築き直しの検討に入りまが、その矢先に吉宗が江戸幕府8代将軍として江戸に行ってしまったので天守建て替えの話は立ち消えになってしまいました。

Q そのまま吉宗が紀州藩主でい続けたらもしかしたら天守の建て替えが実現したかもしれないですね。
最終的に天守の外観については、10代治宝の時代、寛政10年(1798年)に外観が白漆喰に変更になりました。頼宣の頃から約100年以上経って天守の外観が黒から白へと衣替えしたわけです。

Q 紀州徳川家の100年思い続けた執念が実った瞬間ですね。
ここで話が終わればいいのですが、この48年後に今度は落雷が原因で天守が焼失してしまいます。紀州藩は幕府から直ちに許可をもらって天守再建に着手しますが、この時、陣頭指揮を執ったのが当時隠居していた76歳の治宝でした。まさに老体にムチを打って臨んだわけです。

Q 天守の外観を黒から白に変えた治宝からすれば絶対に再建させる、という強い意志があったのでしょうね。
そうだと思います。この2代目天守は嘉永3年(1850)に無事に完成し、昭和20年(1945)の空襲で焼失するまで存在していました。
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「知ってそうで知らない和歌山城の歴史」過去放送分はコチラ🔽
1. 7月30日放送「豊臣・桑山時代」
2. 7月31日放送「浅野期」
3. 9月4日放送「紀州徳川家」

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