9/4放送 和歌山城の歴史③「紀州徳川家」

2024年9月4日

☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆

今回は「和歌山城の知っているようで知らない歴史」について和歌山城整備企画課 伊津見孝明さんにお話を伺います。

前回までのお話は・・・
豊臣秀長が和歌山城を築城し、家臣の桑山重晴が和歌山城の城代を務めた後、豊臣家と非常に近い存在だった浅野幸長が和歌山城主になり、その時に和歌山城は大規模な増改築が行われる。というお話でした。

Q その後の歴史、気になります。教えてください。
浅野家の次に入ってくるのが徳川御三家のひとつ、紀州徳川家でありまして、初代が徳川家康の10番目の息子である徳川頼宣になります。
この頼宣は家康に非常にかわいがられてまして、子供の時はすでに茨城県の水戸藩主や静岡県の駿府藩主などを経験して1619年から紀州藩55万5千石を与えられて紀州藩主になりました。

Q 頼宣の時の和歌山城の様子はどんな感じだったのでしょうか?
二の丸の西側と、砂の丸と南の丸が増築されて、ようやく今の和歌山城の姿が完成しました。

Q  砂の丸は今はグラウンドや護国神社の敷地になっています。南の丸は今は動物園になっていますが、江戸時代はどのように使われていたのでしょうか?
これについてはあまり記録がないのでよくわかっていませんが、絵図を見ると、基本的には蔵が複数存在し、広大な空き地になっていたようです。

Q 砂の丸はあのNHKのブラタモリでもとりあげられていましたね。
元々、砂の丸があった辺りは、南から伸びている吹上砂丘の一部でしたので、それの影響で「砂の丸」と名付けられたと言われています。タモリさんも地形が好きな方なので結構この話には興味を示しておりました。
全国のお城でもこの名前が付いた郭(スペース)が存在するお城は和歌山城だけになります。

Q この辺りが砂丘だったというところに驚きを隠せないのですが、この辺りも詳しく教えてください。
当時はお城の南側から吹上砂丘という虎伏山にぶつかって北西側に続いていたのですが、この吹上砂丘の上に砂の丸がつながっていまして、それで砂の丸という名前がつけられたと言われています。

Q 続いては南の方に行きます。和歌山城の南に三年坂通りがありますが、それも頼宣の時にできたのでしょうか?
もともと砂の丸と吹上砂丘はつながっていたのですが、頼宣の時に南から砂丘を通じて敵が攻めてきたケースを想定して、防ぐために今の三年坂のところを切り通りにして、巨大な空堀のような形にして、結果、三年坂が誕生したという流れになります。
史跡和歌山城のホームページはコチラ

明日も引き続きお話を伺います。

「知ってそうで知らない和歌山城の歴史」過去放送分はコチラ
1. 7月30日放送「豊臣・桑山時代」
2. 7月31日放送「浅野期」


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