
和歌山市広報番組

和歌山市のゲンキな情報をお伝えします!
「ゲンキ 和歌山市」は和歌山市のイベントや旬な話題・情報、
そして和歌山市をゲンキにするために頑張っている市民の方々にスポットをあて、
月曜日から金曜日の朝、お伝えします。
2025年4月17日
☆本日の放送はこちらからお聴きいただけます☆
昨日に引き続き、JR和歌山駅の東にある「太田城」の歴史について、太田城史跡顕彰保存会の会長 川端康紀さんにお話を伺います。
Q:太田城水攻めとは、どういった戦いだったのでしょうか?
最初は兵力の消耗を少なくするため太田城を兵糧攻めにする計画だったのですが、太田城内には沢山の米の貯えがあることから、攻める期間を短縮するため水攻めに変更しました。
水攻めの方法は、紀の川から太田城に水を引き湛えるために高さ4mから6mで、長さ約7kmの長大な堤防を築きました。この堤防を築くに当たり6日間で述べ47万人を使ったといわれています。そして堤防尾が完成したのが、旧暦の4月で折しも雨が降り続きすぐに太田城は水に浮かぶ城のようになったようです。
Q:太田城の周りが湖のようになって、城から出られなくなったということですか?
一面が湖のようになって、城内が浸水しました。秀吉軍は、その水の上に安宅船といわれる軍船を浮かべて太田城に対し攻撃をおこなったこともあったそうですが、太田城では泳ぎが達者の者が夜間、水に潜って船底に穴をあけるなど応戦したそうです。
Q:最後は、どういう形で決着がついたのでしょうか?
太田城は、環濠集落的な要素もあり、周辺で暮らす非戦闘員や子供、女性、老人など数千人が逃げ込んでいたので、彼らの命を救うため、秀吉と交渉し太田城の主だった武士51名が自刃することと、そして生き残った者は、刀や火縄銃などの武器を捨てて農業等に専念することを約束し、城から出て帰ることを許されました。この武装解除は、秀吉が翌年、全国的に実施する刀狩り令の原型となりました。
Q:この水攻めの跡がわかる場所(塚)やもの(絵図)などは残されているのですか?
水攻めの痕跡が残る場所として、出水の水攻め堤跡が残っています。この堤跡は和歌山県の指定文化財として指定されています。また、日本3大水攻めを勇敢に戦い自らの命と引き換えに人々を救った太田城士を讃えるための記念碑として小山塚があります。さらに、江戸時代に、この水攻めの戦いを描いた総光寺縁起絵巻は和歌山市立博物館でその複製画を見ることができます。また、同じく江戸時代に描かれた紀伊名所絵図にも太田城の水攻めの戦いが描かれています。
Q:最後に、ちょうどこの週末、太田城まつりが開催されるとのことですが、ご案内をお願いします。
毎年、太田城士の法要を4月に行っていますが。今年は、4月20日(日)に太田城440年祭を開催します。当日、午後1時より来迎寺さんと小山塚にて法要を営んだ後。午後2時から太田第一公園で今年は水攻めから節目の440年ということで例年のこどもみこしに加え、特別なイベントを行い、太田の町を盛り上げたいと思っています。