7/31放送 和歌山城の歴史②「浅野期」

2024年7月31日

☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆

昨日に引き続き和歌山市市民が知っているようで知らない「和歌山城の歴史」について和歌山城整備企画課の伊津見孝明さんにお話伺います。

Q:昨日は豊臣秀長が和歌山城を築城し、家臣の桑山重晴が和歌山城の城代を務めたというところがメインでした。その後の歴史はどうなっていくのでしょうか?
秀長の城代であった桑山重晴は、文禄4年(1595)に大名として独立して和歌山城主になりますが、関ヶ原の合戦後に隣の和泉国(大阪府岬町辺り)に領地を与えられて和歌山城を離れます。その代わりに和歌山城には浅野幸長(よしなが)が紀伊国37万石の大名として入ってきます。

Q:浅野幸長はどのような人物なのですか?
幸長は豊臣政権で主に司法行政を担当していた浅野長政の息子で、豊臣秀吉の正室北政所(おね)の甥にあたる人物です。当時豊臣家とは非常に近い存在でした。

Q:浅野幸長が和歌山城主になった時に城に大きな変化はあったのですか?
この時期に和歌山城は大規模な増改築が行われます。
虎伏山の北麓に幸長が住むための「御屋敷」が構えられ、これがのちに 二の丸の原型になります。この他、西の丸庭園などもある西の丸も造成されています。

Q:その他和歌山城に見られる大きな変化はありますか?
今、見られる連立式天守が建てられた点が挙げられます。現在の天守は漆喰塗りの白い外観ですが、幸長が建てた天守は板張りの黒い外観をしていました。今と全く真逆の外観をしていた、ということです。

Q:浅野期の和歌山城に関するエピソードが何かあれば教えてください。
(虎伏山の北側)今の西之丸庭園の南側に石垣に囲まれた鶴の渓と呼ばれているエリアがあります。この名前の由来は浅野期にここで鶴が飼育されていたという伝承に由来しています。

実際、江戸時代後期に鶴の餌鉢として利用された石の容器が置かれていた、ということがわかっています。
その餌鉢は今も天守の台所に展示されています。天守閣は小天守から入ってぐるっと一周して外に出るようになっているのですが、その最後の出口があるところが台所で、台所まで辿り着いたら鶴の餌鉢を置いてありますので見ることはできます。

Q:浅野期の和歌山城の名残が見られる場所が他にあれば教えてください。
当時の建造物は残っていませんが、浅野期に積まれた石垣は城内各所に今も残っています。新裏坂辺りや西の丸西側の石垣(駐輪場の向い側)が該当します。

また、不定期にはなりますが「和歌山城の歴史」に迫るコーナーをお届けします。是非、お楽しみにしていてください。

「和歌山城の知ってそうで知らない歴史」過去放送分はコチラ🔽
1. 7月30日放送「豊臣・桑山時代」

コメントを書く

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

TOPへ戻る