7/30放送 和歌山城の歴史①「豊臣・桑山時代」

2024年7月30日

☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆

今回は和歌山市市民が知っているようで知らない「和歌山城の歴史」についてシリーズで和歌山城整備企画課の伊津見孝明さんにお話伺います。

Q: 今回はどの時代のお話を聞かせていただけますか?
関ヶ原の戦いの前の豊臣・桑山時代の話をしたいと思います。

Q: 和歌山城と言えば 徳川吉宗というイメージがあるのですが、実際は違うのですね
和歌山城はいつ頃誰によって築かれたのですか?

和歌山城は天正13年(1585)に羽柴(のちの豊臣)秀吉が弟の秀長に命令して築かせました。当時は虎伏山の山頂と山の南東側で構成された今より規模の小さな城でした。

Q: 和歌山城が築かれた背景には何があったのでしょうか。
和歌山城が築かれる前、戦国時代の和歌山市一帯は雑賀衆という自治集団が治めていましたが、雑賀衆は秀吉と敵対していました。天正13年に秀吉は大軍を率いて雑賀衆を滅ぼしますが、秀吉はこうした敵対勢力への自分の権力の誇示、そしてこの後に控えていた四国攻めの拠点とすべく和歌山城を築いたと考えられています。

Q: 当時の和歌山城にも天守閣はあったのでしょうか。
秀長による築城時に天守閣が存在したかどうかは史料が存在しないため、よくわかっていません。

Q: 築城にまつわるエピソードとして何かありますか?
城内、特に虎伏山山頂の天守郭や本丸の石垣には、五輪塔やお寺の柱の礎石といった転用石がはめ込まれている箇所があります。これは、築城を当時急いでいたため和歌山城周辺の寺院から墓石等をかき集めて石垣用の石材として利用したからだと考えられています。

Q: 豊臣秀長はずっと和歌山城主だったのですか?
いいえ、実は築城されたその年には秀長は大和国(奈良県)の郡山城に居城を移したため、和歌山城に本人がいたのは実質4か月程度です。ただし、所有権はあくまで秀長にあり、和歌山城には家臣の桑山重晴が城代として派遣されていました。

Q: 今の和歌山城で築城当時の面影が見られる場所はありますか。
和歌山城は秀長以降、桑山、浅野、徳川と城主が変わっていく中で、改築が進んだので、築城当時の面影が残されている箇所は限られています。

基本的には天守閣の下の石垣や、虎伏山下の伏虎像後ろの石垣が野面積という石をそのまま加工せず積んでいるのですが、これが築城当時の石垣と考えられるため、もし興味のある方は見に来られてください。

次回は、関ヶ原の戦いの後、紀伊の国を与えられた浅野氏についてご紹介します。
さらに詳しく和歌山城について知りたい方は、和歌山城ホームページをご覧下さい。http://wakayamajo.jp/index.html


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