7/17放送 和歌浦天満宮①

2024年7月17日

☆今日の放送はこちらからお聴きいただけます☆

今回は和歌の浦を代表する名所でもある和歌浦天満宮について、和歌浦天満宮 宮司の小板政規さんにお話を伺います。

Q 和歌浦天満宮はいつからあるのですか?
978年〜83年ぐらいには御社があったという文献が当社の「関南天満宮伝記」という書物に残されています
今も狛犬が残っていますが、そこから想像すると今の本殿の半分くらいの大きさがあったと言われています。

Q 和歌浦天満宮の始まりについて教えてください
西暦901年 菅原道真公が京都から九州に左遷させられた時に、風波を避けてこの和歌浦に立ち寄った
と伝わっています。
その後、役人の橘なおもと という方が祠のような物を立てたのが始まりとされています。

Q 菅原道真を祀っている神社は全国に他にもたくさんあるのでしょうか?
天満宮は全国に1万1千社あるといわれています。

Q 天満宮はどうして「学問の神様」といわれているのですか?
本来は学問の神様として祀ったのではありません
道真公は平安時代の学者で、ずっと勉強されていたので学会の一大勢力の菅原家の私塾をするのですが、盛況を望まない学者たちの嫌がらせによって四国に赴任させられています。

その後、地方に飛ばされたので逆にみんなの生活がどういうことかがわかって、4年後に都に戻ったらその事が活きて宇多天皇によって出世いたします。右大臣に昇進したりしてるのですが、他の家柄の地位の上昇を快く思わない藤原氏は、天皇の位を撤廃しようと企てていると嘘のことをいわされまして、九州に左遷させられます。その時に道真公の子供4人も仕事を失います。

その太宰府での生活は雨が漏っている部屋に閉じ込められたり、蛙がないているような家で生活されてまして、903年3月25日に亡くなります。その後が大変なことになります。

まず、疫病が大流行したり、左遷を企てた人が次々と亡くなります。洪水やら大火やら水疱瘡、渇水、天然痘大流行、挙げ句の果てには清涼殿(京都の重要な所)に落雷で何人か亡くなりました。
その時に道真公の祟りだ、とみんなが噂します。

何故、天神さまが学問の神様かというと、日本は逆にきちんとお祀りすれば最高の神様になれるという日本独特の信仰があって、やがて勉強もできたので、学問の神様としても信仰することになりました。

明日も引き続きよろしくお願いします。

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